スケルトン イン ザ クローゼット/岩本ナオ

 

この本は、岩本ナオがデビューして初の単行本。

私にとっては何回も読み返すバイブル的漫画だ。

「町でうわさの天狗の子」から入って岩本ナオファンになり、

この本に辿りついた。

タイトルになっている「スケルトンインザクローゼット」以外に、6つの短編が収録されている。

スケルトンインザクローゼットとは、「他人に見られたくない子ども」のこと。

公認会計士の試験浪人中のカンちゃんの家に、いとこの中学生野花、

弟で新人漫画家の公二がやってくる。

今年こそ試験に受からなければいけないプレッシャーと戦うカンちゃん。

親と勘当寸前の公二。

離婚したばかりの母親に放任されている野花。

本当は誰かに認められたくて居場所がほしいのに、なかなか素直になれない。

 

私がこの話の中で好きなシーンが3つある。

まず、野花が攻略サイトを見ながらゲームをするシーン。

 

15歳の女の子の口から出た「頼れるものは何でも頼るって決めてんの」という大人びた言葉は、
本当は誰かに頼りたいことの裏返しにもとれる。
ここの、人が強がる心情を漫画に置き換える作者のセンスがすごい。

次に、カンちゃんの好きな人、由美加センパイとの再会。

 

学生時代は化粧っ気のなかった由美加センパイの

「就職してから女はちょっとぐらいきれいにしてたほうが働きやすいって気づいたの」

このパワーワード。

賢い女子たちはもう感覚で気づいていたかもしれないけど、私はこれに気づくまでだいぶかかった。
新卒の頃はピンとこなかったけどさすがに何回も転職すると痛いほど身に染みた。

最後に一番好きなシーン。

公二が自分が好きな人(由美加センパイ)を、カンちゃんも好きだと気づいてしまったシーン。

あきらめようとする公二に対し、野花は「恋をつまらないものにするな」と活を入れる。

 

 

スケルトンインザクローゼットの中身だけでも十分満足するのだけど、

他の短編どれも全てが素晴らしい。

心に沈んだ胸キュンを甦らせたいのなら岩本ナオを読めと言いふらしていきたい。

厄払い

先週、実家で本厄の厄払いに行ってきた。

お寺で17年ぶりくらいに地元の同級生Yちゃんと再会して、
既に3人も子供がいるという事実に衝撃を受けた。

なにより、
3人の子育てと仕事を両立している彼女がまぶしすぎて、目を合わせることができない。
自分なんていまだに一人で生活するのに精いっぱいで、他人を考える余裕がない。
そんな半端な自分を見られることが恥ずかしい、と思ったのが正直なところだ。

5人のお坊さんが火を囲んでお経をあげている中、
護摩札を火の中にくべていく。

Yちゃんがおもむろに「そういえばさあ・・・ほら、あの時助けてもらったよね。」
と言ってきた。

何のことやらさっぱり分からず。

「制服の事件あったじゃん。」と言われ、ようやく思い出した。

Yちゃんとは家の方向が同じだったこともあり、
小中と一緒に通学する仲だった。
控えめな子だったけど、田舎だと浮いてしまうくらいスッとした美人だった。

ある日Yちゃんが体育の時間から戻った後、制服が無くなっていた。
本人はおおごとにしたくないからと言ってそのままジャージで過ごしていたけど、
私は腹を立てて探さなきゃだめだと探しにいった。
結局、学校の中をいくら探しても出てこなくて、
二人でいつもの通学路を帰っていると、道端の横で燃やされたYちゃんの制服があった。

Yちゃんは気持ち悪いから黙っといてと言ったけど、
このまま黙ってたらまた新しい制服も燃やされてしまうかもしれないからと説得し、
学校に戻って先生に報告した。
結局犯人が見つからないままお蔵入りになってしまったが、
その後制服は無くなることはなかった。

今思うと、本当はYちゃんの気持ちを考えたらおせっかいだったのかなと思う。
でも、Yちゃんはあの時の私ことを「頼もしかった」と言った。

そう言ってくれる人がいるんだったら、自分も結構捨てたもんじゃないなと思えた。

オードリーとオールナイトニッポン まだまだ30代!編/ニッポン放送

 

 

オードリーのオールナイトニッポン10周年ツアー in 武道館。

先日ぴあから4回目の落選を告げられ、仕事も手につかず落ち込んでいた。
当選アップ券も使ったのに。

 

しかし、

 

神様は見ててくださいました。

常日ごろオフィスの(誰も交換してくれない)ウォーターサーバーを替えたり、

(誰も押さないエレベーターのボタン)を押したりという、

ささやかな徳。

なんとリトルトゥース(オードリーのオールナイトニッポンを聞いているリスナーの事)仲間の後輩が、
チケット余ったので一緒にどうですかという事で行けることに。

ありがたい。

 

 

という事で、昨年の12月に発売されたばかりのオードリーANNムック本。
この本は1890円とムック本にしては少々お高めだ。
高いなと一瞬思ったけど、本読んで付録の傑作トークCD聞いたら
むしろ、こんなに楽しませてくれてありがとうという気持ちになった。

内容は、
巻頭オードリーと、青春時代
三四郎小宮と若林の対談
クロニクル
むつみ荘レポート
漫画「カスガ金融道」
などなど。

巻頭はオードリーの二人が若手時代の想い出を語る。
「そっくり館キサラ」の前説をやりながら、売れることを夢見ていた。
楽しいこともあったけど嫌な事ばかり思い出す『クソな時代』だったと言い放つ。
成功すると昔を美化する人もいるけど、昔を宝物というのではなくそのままの記憶として
正直に言うところがすごくいいなあと思う。文章に挟む写真もいい。

三四郎の小宮との対談も若林×小宮の組み合わせが新鮮で、
実は二人とも思考が似ている部分があって面白い。

特に小宮が差し歯を入れたエピソードは、
当時歯が欠けている方が芸人として美味しいのに何で入れるのかと思っていたので、
対談を読んですっきりした。
歳も少し離れた二人。ライフステージの変化による周囲からの評価。
これまで若林が先に通過してきたからこそ、小宮の気持ちが分かってしまうのか。。
芸人の苦悩が垣間見える。

一点だけ読んでいてショックだったことがある。
以下クロニクルより抜粋。

若林「(女性が)うちに来て、たぶん善意で片づけたりしてくれて、脱ぎ散らかした服とかをハンガーにかけてくれたりすると、
すげぇムカつくんだよね。もう(俺)クズでしょ?」
春日「クズだな。でもな、分からんでもないな。」

・・・あ、これ自分だ。

昔付き合っていた人にもやってたし、気を許した友達の家でもやってた。

リトルトゥース失格だ。

今後はもう予め確認することにしよう。

片づけたらムカつくタイプのクズかどうか。

赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。/赤塚不二夫

明けましておめでとうございます。

仕事初めから予想以上に忙しくて、メンタルをがりがり削られました。
もう機械的に捌くしかないと思い、心を殺して迎えた昨日の金曜ロードショー「耳をすませば」。
今朝窓を開けても天沢聖司くんはいませんでした。代わりに隣の家のお爺ちゃんの頭が見えました。

現実に絶望しつつも2019年は仕事を辞めないように頑張るつもりです。
あと、ブログも書くことがある限り続けます。

さて2019年度一発目の本。

 

赤塚不二夫が今では各業界で天才、大御所と言われる面々と対談した本。

七人の侍みたいな面々にしたかったという本人。

タモリ、柳美里、立川談志、北野武、ダニエル・カール、荒木経惟、松本人志

と大御所の面々。

どの章も読み応えは抜群だけどタモリさんとの関係性が、今の時代にはないことだなあと思って
感慨深い。

タモリさんは赤塚不二夫にその面白さを買われて、30歳の時に九州から上京した。

上京後も赤塚不二夫の目白の高級マンションに居候し、ベンツを乗り回す贅沢な居候生活を満喫したという。

方やパトロンである本人は事務所のロッカーを倒してベット代わりに寝て、タクシーを使う。

タモリさんのいう居候の秘訣は、

「恐縮すると居候を養っている側が見くびるんですよ。こいつぁー大物じゃないって(笑)。

こんなもてなしくらい、俺は当然受けていい人物だっていうのを見せないと、居候やっていけないですよ。」

赤塚不二夫は「笑い」に代えがたい価値を持ってたから、自分が面白いと思ったタモリさんを惜しみなく支援した。

才能を買うという行為は博打のようなもので、覚悟がないとできない。
回顧主義かもしれないけど、人間臭くていい時代だなあと思う。

この対談集でドキッとしたのがダニエル・カールとの対談。
戦争経験者の赤塚不二夫が、
ダニエルに「アメ公」「アメチャン」と呼びかける。
侮辱ともとれる物言いに、何と呼んでくれてもいいですと真摯に質問に答えていくダニエル。
「ねえ、ダニエル・カールさん。だけど俺はいまでも悔しい、アメリカに負けたのは。」
そうこぼす赤塚不二夫に対して「今は仲がいいんだから関係ない」と諭す。

アメリカのことを認めているけど、肯定したくない揺らぎみたいなものが見て取れる。
言葉の節々には日本という国を想い、本気で心配している姿があった。

対談集とか結構好きで読んでしまうのは、
人と人との違う意見が知れることにある。

相手に媚びない率直な人の話は面白い。

これでいいのだ。っていい言葉。

 

 

 

受難/姫野カオルコ

昨日なんとか仕事を納めて実家に帰省しました。

12月後半は体の調子が思わしくなく、ひたすら寝続けるという
無駄な時間を過ごしてしまった。
心は小学生男子でも身体はアラサーという現実がつらい。

さてそんな自分にぴったりのタイトル「受難」。
1995年に発表されてから随分後に映画化もされた。(岩佐さん、いま何してるんだろう。)

主人公フランチェス子は両親と早くに死別し、戒律の厳しい修道院で育った。
修道院を出てからはプログラマーとして働き、贅沢もせず一人でひっそりと暮らしていた。
そんなある日、フランチェスコの女性器に人面瘡ができてしまう。
「お前は女としてダメだからこんなものができるのだ」と罵る人面瘡に「古賀さん」とあだ名をつけ、
奇妙な共同生活が始まる。

受難とは、苦しみやわざわいを受けること。
そして神学用語から引用すると、イエス=キリストが十字架にかけられて受けた苦難のこと。
冒頭から人前で読むのがはばかられる放送禁止用語が続き、
処女のフランチェス子と人面瘡古賀さんというファンタジーな設定と、コミカルな会話劇に何度も笑わせられる。
1995年に発表されたこの作品に描かれるフランチェス子、今でいう「こじらせ女子」そのものだ。

容姿はモデルをやっていたくらいなので美しいはずだが、
石膏のようで男性を萎えさせてしまう特異な性質。
「空き家女」「女として魅力がない」と古賀さんにさんざん言われ続け、
悲しむことすら諦めたフランチェス子。
ついには自分の部屋をラブホ代わりにと改造して友人たちに提供する始末。
ただ、このフランチェス子という人物は基本的にポジティブであり、図太い。

「神様、私は傲慢でした。私のような女には、さびしい、という資格はありませんでした。ごめんなさい。」

古賀さんにさびしいなんて勃起させられる能力のある女が言えることだ。と言われたフランチェス子の自嘲は反論に聞こえる。
働いて、自立して慎ましい生活をしているだけなのに、なんで女として欠陥品とレッテルを貼られなければならんのだ。
物語の根底には、著者が感じている世の中のジェンダー観に対する違和感が漂っている。

「恋人ができる男というのは会話がないんだ。恋人ができる女と言うのも会話がないんだ。
会話なんかできたら”つきあう”対象としては見てはもらえない。パーソナリティを持ったらダメ女になる。
男もおんなじさ、パーソナリティなんかあるやつは、いい人ね、だ。」

相手の人格の深い部分にまで入り込もうとしないこと、
入り込まれるほどの人格を所有しないこと。
これが男女の付き合うキモらしい。

じゃあ自分を押し込めてまで男女の仲になりたいのかって自問自答してしまう。
こんなんだからダメなんだろうな。

フランチェス子のように僻まず、他人の幸せを願う人間になれば救われるのか。
「与えよ、さらば与えられん」
ラストのおとぎ話のような超展開に驚きつつも、すっきりとした読後感が良かった。

新版 犬が星見た/武田百合子

 

朝食まで、一人で散歩に出る。一人がいい。

好きな方角に足を向け、好きなところに、好きなだけいられる。

 

武田百合子の著書は読んだことがない。

夫の武田泰淳はひかりごけで覚えていたので

作家の奥さんはどのような文章を書くんだろうと興味が湧いて手に取った。

昭和44年6月。横浜港。

武田夫妻と友人の竹内氏の3人は他のツアー客とともにロシアへ旅立った。

著者の文章は無駄がなく、まっすぐ物事をとらえる。自由奔放。

食事の描写も給食の献立のようで、料理に対して細かく語らない。

そして正直に美味しいものは美味しいと言い、マズいものはマズいという。

気持ちのいい人だなあと読みながらすぐ好きになってしまった。

 

あまり女性だからどうとかいうつもりはないけど、

この本に頻繁に出てくる言葉が「糞」「便所」「嘔吐」・・・

人間の生理現象をありのまま書いている。

ここまで記録されている旅行記もないのではないか。

汚いというより、ああ人間の行動は客観的にみると可笑しいなと思えるギリギリのライン。

そしてこの本には、自分の理想的な夫婦の関係性があった。

ツアーの旅程がずれこんでしまい、

アルマ・アタを飛ばし、タシケントに行くことが決まった時。

 

「どうして、行けないのかなあ」と、私にだけ聞える小さな声で呟く。

私が応えないでいると、再び「どうして、行けないのかなあ」もう少し大きく、しかし私にだけ聞えるくらいの声で呟く。

声が震えている。

「いやならいやだと言っていいのだから。あたしが言おう」

すると、〈言うな〉と私の腕を痛いほど掴む。

 

皆がタシケント行く雰囲気になっている中で、

アルマ・アタに行けない恨めしさを、著者にだけ感情を吐露する夫。

夫の思いを叶えてやりたいという著者。

内弁慶で臆病な夫と、自分の意見をきっぱりと言える凛々しい著者の姿が目に浮かぶ。

そしてどうにもならない中、夫が可哀想で涙してしまう著者の優しさに胸が打たれた。

泰淳は、旅は楽しいか?と確認し、自分が美味しいと思ったものは百合子も食べろと言い、服もときたま褒める。

不器用ながらも行動は愛に溢れている。

 

「スパシーバ(ありがとう)」

「パジャールスタ(どういたしまして)」

 

各々が異国の地で何度も口にした言葉。

おそらく、このロシア旅行が最後の旅行になることを予測しているのか、
旅行記に写しだされる二人の姿は、
お互いの存在に「ありがとう」と「どういたしまして」と言っているかのようだった。

高丘親王航海記/澁澤龍彦

 

昔から、現実と夢が倒錯するような話が好きだ。

自分の中で代表的な一冊がこの「高丘親王航海記」。

時代は貞観七年(平安時代初期)。

高丘親王は、僧侶の安展・円覚2人と秋丸という少年を引き連れ、

天竺へ向かった。

幼少期、父親である平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子に添い寝をしてもらいながら、

夢うつつで天竺の話を聞いた。

その後、平城天皇は権力闘争に負け、心を許していた薬子も自害してしまう。

仏門に入った親王は薬子の記憶を追うかのように、天竺へ行くことが生きる上での目標となった。

天竺までの道程では、蜜人採集をする部族、獏を飼いならす獏園など、次々と奇妙な出来事が起きる。

この物語に惹きこまれたのは、美しく妖しい「薬子」の存在が大きい。

文章全体に甘美な雰囲気が漂うのも、冒頭に彼女のイメージを徹底的に焼き付けられたからだ。

肝心の主人公である親王はというと、周りから愛される人物として描かれる。

何者も拒まない優しい心と、好奇心に任せて危険へ飛び込んでしまう少年のような純真さ。

その優しさが時に自分へ災いをもたらしてしまうというところさえも、魅力的に感じる。

そんな親王に忠誠を誓い、守ろうとする安展と円覚のあたふたした様子はどこか滑稽だ。

前半は旅の始まりを感じさせるわくわく感で始まり、

後半の親王が病に臥せってからは焦燥に変わる。

遺稿となったこの物語は、澁澤龍彦が入院中に完成させたものだ。

病に臥せってしまった親王が、天竺に辿りつきたい気持ちと自分の人生に残された時間に苦悩したように、残された時間がわずかだったらどうするか。

著者の死生観が少なからず反映されているとするのであれば、

私にはこの物語の結末が、明るい結末のように思えた。

ビロウな話で恐縮です日記/三浦しをん

 

オードリーANNツアーの抽選が外れてからは何もする気が起きない。

そういや昔、美輪さんがテレビで「正負の法則」を話してたのを思い出した。
いいこととわるいことは交互に訪れるものだと。

確かに2年前は仕事最悪だったけど、行きたいライブの抽選チケットは全部当たったなあ。

この法則はあながち当たっているのかもしれない。

今ある程度仕事も慣れてきたし、人にも恵まれている。

贅沢はいうなってことか。。。

こうなったら粛々と徳を積むしかない。

さて、この本は作家・三浦しをんの日記を2007年から時系列に編纂したもの。

「ビロウ」という言葉は初めて聞いたが、解説のジェーン・スー氏が調べてくださっていた。

 

尾籠(びろう)

①わいせつであったり不潔であったりして、人前で口にするのがはばかられること。

②礼を失すること。失礼。無礼。

 

内容はこのタイトルどおり、ビロウな話が満載である。

まず、表紙が中村明日美子先生の同級生に出てくる利人であることから分かるように、著者のBL愛・漫画愛が溢れている。

随所にBL本や漫画の感想が描かれているのだが、日常のあれこれは5行程度で終わる日があるのに比べ、感想を書いている日の熱量がすごい。

しかもただの感想ではなく、考察から漫画論にまで発展している。

好きな物に対して追求していくスタンスに共感せずにはいられない。

そしてこの本全体の一番魅力的なところは「三浦しをん」という人間性だ。

基本仕事に追われている著者が、「半ケツでトイレットペーパーの替えを探す」「風呂に入ってない」「冷蔵庫に眠っていた半年前のローストビーフを食す」など普通人が隠したい部分を、赤裸々に真面目に記録している。

あるある。とないない。と頭で思いながら読み進める。

どうやら人は忙しいと現実逃避しておかしくなるらしい。

なぜか急にさだまさしの防人のうたを歌い始めたり、突如「五十半ばの脂ぎって腹も出た男性を、マイケル・ジョーダンだと自分に言い聞かせてセックスすることは可能か否かという話になった。」と語り始める著者。

日記だから、そこに語り口調も論理も関係ない。

そのカオスさがまたいい。

ただ、電車の中で読むとニヤニヤしてしまうから油断は禁物だ。

ちょうど「風が強く吹いている」のアニメもやっていることだし、三浦しをん作品を読んでみよう。

 

 

少女は卒業しない/朝井リョウ

 

 

伸ばした小指のつめはきっと、春のさきっぽにもうすぐ届く。

つめたいガラス窓の向こうでは風が強く吹いていて、

葉が揺れるのをみているだけでからだが寒くなる。

 

これまで朝井リョウに対しては「桐島、部活やめるってよ」「チア男子!!」「何者」と

ヒットを飛ばす人気若手作家というイメージを勝手に抱いていた。

捻くれている自分は、話題になっている時にあえて買わん!と頑なに読まずにいた。

謎の非買運動を行っている中、たまたま「少女は卒業しない」を手に取って

パラパラとめくった。

で、冒頭の一節を読んで心を摑まれてしまった。

 

たったこれだけで学生時代の懐かしさや、卒業間際のソワソワした感じが一気に蘇ってくる。

これが、朝井リョウか・・・と非買運動にピリオドをうち、

結果めちゃくちゃ良い小説だった。

 

この本は、翌日には校舎が取り壊されてしまう地方の高校が舞台で、

卒業式の一日を7人の少女の視点から描いた短編集。

中でも短編最後を飾る「夜明けの中心」が特に印象に残っている。

 

校舎の幽霊。どの学校でもそういった類のうわさはある。

東棟の校舎に出るという幽霊の噂が、南棟にうつりかわった時期があった。

 

真夜中の教室も、誰もいない校舎も、全然怖くない。

だってあたしは、あの子たちがあんなにも怖がっていたものを、

いま、こんなにも探している。

 

卒業式終了後に夜の校舎に忍び込む、主人公の「あたし」。

そして同じことを考えていた人物がもう一人、香川がそこにいた。

かつてあたしには駿という恋人がいて、香川、駿とあたしの三人は友達だった。

香川と駿は剣道部でお互い友人でもあり良きライバルでもあった。

あたしは料理部員で、南棟の三階のはしっこにある調理室で

クッキーを焼き、駿のために作ったお弁当を温めて一緒に食べた。

それがほんの一瞬の出来事で、平穏な日々は崩れ去った。

 

時間が止まってしまったあたしと香川は、

明日取り壊される校舎で、お互い向き合うことができなかった、

その過去に踏み込むことで未来に一歩進もうとする。

 

朝井リョウの文章は、短編の映画を見てるみたいだ、と思う。

それこそ、桐島~の時の神木君みたいに8ミリカメラを持ってまわって

どこかの学校に忍び込んできたんじゃないかと思うくらい描写が鮮明だ。

そしてなにより

なくなってしまうものの象徴としての「校舎」と、

時間的な制限である「卒業」。

どちらも限られているからこそ、青春時代の儚さと美しさがそこにあるんだと

言っているような気がしてならない。

 

このあと朝井リョウの代表作を色々読んでみたけれど、

やっぱりこの本が一番好きだ。

伊東の旅~キモ可愛いパラダイス編~

休みを使って伊東温泉へ行ってきた。

宿ではハンモックに揺られながらキングダムを読む→温泉→キングダムを読む

→オセロ→キングダムを読むという

インドア・オブ・インドアな一日を過ごした。

特に面白いこともないので、どこが楽しかったとかの感想は割愛し、

伊東市にヤバい施設があったことを伝えたい。

その名も『まぼろし博覧会

キモ可愛いパラダイスと銘打っているが、入った途端、

漂ってくる空気が明らかにヤバい。心霊スポットのあれだ。

森林の中に無造作に置かれたメリーゴーランドの木馬。

赤い鳥居。

目隠しをされたマネキン。

確か前情報では、懐かし昭和文化が紹介されているミュージアム的なものだったはず。

あるべきところに、あるべきものがないだけで

不安で仕方がない。そして、ホコリがすごい。

意味不明な物体が所狭しと無造作に置かれている通路。

前に進むごとにゲシュタルト崩壊していく。

 

一番怖かったのが、GWに新しく増設されたゾーン「まぼろし池」

陽気なハワイアンがBGMで流れている。

目の前に今にも崩れ落ちそうな舞台に並べられたマネキン。

 

白昼夢・・・というか歩きながら悪い夢を見ているのか。

ただこの思い当たるザワザワとした感覚。

そうだラース・フォン・トリアーの映画だ。

精神的に疲れてぐったりと出口に向かっていると、

いま入ったばかりであろうカップルの彼女が

「マジ最高!!」と叫んでいるのが聞こえてきた。

 

私はまぼろし博覧会から無言で立ち去り、

日常って素晴らしい。と心から思った。

 

このままでは伊東市の怖かった思い出で終わってしまうので、

伊東駅近くの「まるげん」で食べた海鮮丼が美味しかったです。