新版 犬が星見た/武田百合子

 

朝食まで、一人で散歩に出る。一人がいい。

好きな方角に足を向け、好きなところに、好きなだけいられる。

 

武田百合子の著書は読んだことがない。

夫の武田泰淳はひかりごけで覚えていたので

作家の奥さんはどのような文章を書くんだろうと興味が湧いて手に取った。

昭和44年6月。横浜港。

武田夫妻と友人の竹内氏の3人は他のツアー客とともにロシアへ旅立った。

著者の文章は無駄がなく、まっすぐ物事をとらえる。自由奔放。

食事の描写も給食の献立のようで、料理に対して細かく語らない。

そして正直に美味しいものは美味しいと言い、マズいものはマズいという。

気持ちのいい人だなあと読みながらすぐ好きになってしまった。

 

あまり女性だからどうとかいうつもりはないけど、

この本に頻繁に出てくる言葉が「糞」「便所」「嘔吐」・・・

人間の生理現象をありのまま書いている。

ここまで記録されている旅行記もないのではないか。

汚いというより、ああ人間の行動は客観的にみると可笑しいなと思えるギリギリのライン。

そしてこの本には、自分の理想的な夫婦の関係性があった。

ツアーの旅程がずれこんでしまい、

アルマ・アタを飛ばし、タシケントに行くことが決まった時。

 

「どうして、行けないのかなあ」と、私にだけ聞える小さな声で呟く。

私が応えないでいると、再び「どうして、行けないのかなあ」もう少し大きく、しかし私にだけ聞えるくらいの声で呟く。

声が震えている。

「いやならいやだと言っていいのだから。あたしが言おう」

すると、〈言うな〉と私の腕を痛いほど掴む。

 

皆がタシケント行く雰囲気になっている中で、

アルマ・アタに行けない恨めしさを、著者にだけ感情を吐露する夫。

夫の思いを叶えてやりたいという著者。

内弁慶で臆病な夫と、自分の意見をきっぱりと言える凛々しい著者の姿が目に浮かぶ。

そしてどうにもならない中、夫が可哀想で涙してしまう著者の優しさに胸が打たれた。

泰淳は、旅は楽しいか?と確認し、自分が美味しいと思ったものは百合子も食べろと言い、服もときたま褒める。

不器用ながらも行動は愛に溢れている。

 

「スパシーバ(ありがとう)」

「パジャールスタ(どういたしまして)」

 

各々が異国の地で何度も口にした言葉。

おそらく、このロシア旅行が最後の旅行になることを予測しているのか、
旅行記に写しだされる二人の姿は、
お互いの存在に「ありがとう」と「どういたしまして」と言っているかのようだった。